集団と組織

 集団と組織は違う。集合と組織は、違う。集合は、ただの集まりであるが、組織には構造がある。社会の仕組みは、集合ではない。組織である。何らかの構造があるのである。

 今日、我々が、教育として思い浮かべるのは、集合教育である。我々が正規の教育というと、ほとんどが集合教育を指して言う。しかし、集合教育というのは、教育の一手段であることを忘れてはならない。教育のやり方は、他にも沢山あるのである。

 集合教育の特徴を上げると一つは、一方通行だと言う事である。第二点は、予め何もかも決められているという事である。第三点は、皆、同じだという事である。

 学校という組織は、最初から生徒達を除外している。つまり、生徒達を信頼していないのである。
集合教育は、一方通行である。生徒の話を聞かない。聞く耳を持たない。先生が悪いというのではない。集合教育とはそう言う構造なのである。
 家庭や社会では、相手の話を何も聞かずに決めると言う事はない。親は、子供に対し、絶えず、どうして欲しい、何が欲しい、どこが悪かった、何が嫌なのと問いかける。相手の意見を聞かずに一方的な決めつけるという事はしない。特に、民主主義国では、相手の意向を無視して話を決めてはならないのが基本的ルールである。ところが、学校では、この基本的ルールですら守られていないのである。それは、子供達を大人が信じていない証である。
 そして、一方通行であることによって常に、教える側が、教わる側を見下していることになる。本来、学習は、双方向である。一方通行では、教育の効果は、半減、否、それ以上に減殺されてしまう。

 集合教育は、一方通行であると同時に、何でも予めに決められている。決められた時間に、決められた場所で、決められた事を、決まった人が、決まった生徒達に、決められたように教えるのである。だから、一方通行にならざるを得ない。当事者の意志・意思が入り込む余地がないのである。
 何でも予めに決められている上に、何でも同じなのである。同じ場所で、同じ事を、同じ人が、同じ生徒達に、同じように教えるのである。
 これは、異常なことである。世間一般では、人為的に作り出さない限り、あり得ない。流れ作業のような仕事でも全員が同じ事をしているという事はあり得ない。この異常さに当事者も社会も気が付いていないのである。そして、自覚していないからこそ、いろいろな弊害が生じるのである。

 よく、組織の歯車になるなと教えるが、これでは、集合教育では、組織の歯車にもなれない。少なくとも、組織には、分業がある。集合教育には、その分業すらないのである。つまり、教わる側には、役割がない。だから、無責任になるのは当然である。

 この様な集合教育で一番の弊害は、予め何でも決められている状況が、当たり前になり、習慣化することである。だから、何でも予め決められていないと何もできない。皆が同じ事をしないと落ち着かない。そう言う感性を養ってしまう。こういう状況で自主性や個性を出せといっても無理である。教える側が、自主性や個性を出せないようにしてしまっているのである。
 集合教育自体が、民主主義的でも、自主性を育てる体制でもないのである。

 この集合教育が正規の教育では、教育の全てであるように扱われているのである。

 しかし、現実の社会では、集合教育というのは、あまり実施されない。講演会や講習会のような形で、たまにされるだけである。しかも、かなり時間を限ってである。また、セミナーやカルチャーセンターのようなところで、限定的にされている。なぜならば、集合教育というのは、実地教育と違って成果を評価しにくいからである。
 だから、集合教育の成果は、試験によって測ることになるのである。

 企業内教育でも集合教育はする。しかし、それは、限られた期間である。しかも、集合教育の何割かは、集合訓練である。それは、集合教育には、無駄が多く、実践にはあまり役に立たないことを実業界では知っているからである。

 集合教育が嫌われるのは、評判が悪いという事もある。眠くなりし、寝ていてもわからない。こういう教育は、実行力が乏しい。時間の無駄他と思う人もいる。なぜ、この様な集合教育が多用されるのか、それは、管理がしやすい教育体制だからである。

 一人の人間が管理できる人間の数は、大体七人から八人である。学校で一人の教師が受け持つ生徒の人数は、少なくて三、四十人である。多いところは、五十人から六十人。大学に至っては、百人以上を教えているところすらある。これでは、まともに学生の面倒を見ることはできない。
 生徒の数を少数にし、きめ細かな授業をしたくとも、学校には、予算がある。大勢の教育者を雇うことはできない。物理的、場所的にも限界がある。そうなると、一所に子供を可能な限り集めて、講義型の授業をするのが効率がいい。また、授業の内容も教師も標準化、平準化して、質を均質にする事も可能である。そうすれば、全国を一定の基準で管理することも可能となる。だから、勢い集合教育にならざるを得ないのだというのが当局の考えである。大多数の国民も納得している。その上で、教育改革を考える。しかし、集合教育を前提としているかぎり、教育の本質は変わらない。

 学校経営には、経済的、物理的制約がある。
 では、少人数の教育はできないかと言えば、可能だと私は考える。大体、実績がある。部活動である。多い部では、百人や二百人の部員がいる。しかし、彼等は、マンツーマンの指導を受けている場合すらある。何が違うのか、それは、組織化されていることである。

 部活では、部の運営は、部員がしている。後輩の面倒は、先輩が見ている。そこには、自ずと組織の論理、規律がある。この様な教育は、過去にはされた例がいくらでもある。しかし、現代はなぜか無視されている。
 過去においてされた例というのは、一つは軍隊である。もう一つは、徒弟制度である。その他には、地域社会にあった青年団や若衆宿、藩校、塾のようなものである。

 学校の起源も本来は、独立自治の精神に基づいていた。なぜならば、学問の独立が保たれないからである。不偏不党の精神が貴ばれたからである。だから、学生を組織化することは、不可能ではない。また、本来の教育は、学生を組織化し、自分達で学校を運営することによって独立不羈の精神と組織の運用術を学ばせることである。それは、一石二鳥の効果がある。

 世の中に出て大切なのは、段取り・手順である。特に、民主主義国において重要なのは、民主主義的な組織の運用術である。これは、実地でしか、身につけられない。

 集合教育を辞めてしまえと言っているのではない。本来の役割の範囲に限定すべきだと言っているのである。

 その上、生徒達をもっと授業の計画段階で参画させるべきである。少なくとも、自分達が受けた授業が面白かったか。興味が持てたか。また、何をしたいかを聞くくらいはできるはずである。
 そして、学校教育の運営に関与させることによって集合教育の足りない所を補わせるべきなのである。

 かつて私は、自分の通っていた高校の校長と議論をした事がある。その時、校長が言われたのは、自分は、学園祭の運営を生徒達に今回まかせた。自分は、行程で焚き火でもされて、消防に怒られやしないかと危惧したが、何も起こらなかった。そこで私は、校長に信じれば自粛してしまうものですよと応えた。子供達も馬鹿ではない。子供を信じて、責任を持たせたら、むしろ、子供達をどうすれば、積極的にできるかを考えた方がいいくらいである。




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