社    会

 社会は、包括的な場である。社会は、自己空間、家庭空間、学校空間、職場などを包含した空間である。
 社会は、間接的な場である。社会空間は、学習主体に基本的には、直接的な働きかけをするのではなく、間接的な働きかけをする。むろん、社会の変動期や家庭空間、学校空間、職場空間の保護がなくなった場合、直接的に影響を及ぼすことがある。しかし、通常は、家庭空間や学校空間、職場空間を介して影響を及ぼしてくる。それだけに、教育環境に与える影響が把握しにくい傾向がある。しかし、間接的といえど、社会は、その他の空間の土台基礎となる場であるから、無視することのできない大きな影響力を個々の学習主体に対し持っている。
 社会は、統一的な場である。統一的な場の中に、社会は、地域コミニティ、自治体、国家、世界といった階層構造を持っている。
 社会は、いわば外枠、背景となる場である。

 社会は、他の場の基礎・土台となる場である。社会空間を土台にして、自己や家庭、学校、職場は成り立っている。社会は、直接的に学習主体に働きかけたりはしないが、家庭や学校、職場を介して学習主体に働きかけてくる。そう言う意味では、土壌のような物である。人々が生きていく為に必要な多くの野菜や植物を育む一方、有害な物質は、食物や水のような物を介し、長い期間かけて、人々の健康を蝕んでいくのである。

 同様に、社会に蔓延している有害な情報は、直接的、又は、短期間にその害を人々の生活や生き方に及ぼすわけではない。しかし、徐々に確実に人々の精神を侵していくのである。それが、目に見える症状として現れた時は、手遅れである場合が多い。だからこそ、物理的環境の悪化を懸念するのと同じように、精神的環境の悪化に対し、用心深くなる必要があるのである。

 社会は統一的な場である。社会を規制する法や制度は、統一的なものである。ただ、制度や法は、それが成立する過程で階層が生じる。その結果、社会の場には、制度的な階層、構造的な階層があるのである。 

 社会的に場に働く力は、一つは、法的な力である。もう一つは、文化の力である。後者は、前者に本来補完的に働く力であるが、何らかの事情によって、後者が、前者に対し相反する働きをしたり、働きが弱かったりした場合、前者の力、即ち、法的な力が強化される。例えば、文化的に反体制的であったり、反社会的であったりする社会は、法的な力を強化しないと統制できなくなる。

 その意味で、独裁体制や全体主義体制は、法的拘束力を強める傾向がある。

 法を補う形で公衆道徳、常識・良識、つまり、公序良俗があった。しかし、この公序良俗を否定し、法に定められていないことは、何をやっても良いという風潮が強くなっている。これは、嘆かわしいというむきがあるが、嘆かわしいと言って済ませられるようなものではない。
 結局、法の体系というのは、言葉による体系に過ぎない。必然的に言葉の限界を内包している。この言葉の限界を補うために、公序良俗が存在するのである。公序良俗が機能しなくなると、信賞必罰、つまり法の力だけで社会を維持しなければならなくなる。公序良俗を尊ぶ気風がなくなれば、自ずと強権的な体制が必然的に成立せざるをえなくなるのである。尊ぶべきは、法ではなく、公序良俗の方である。公衆道徳が確立されれば、自ずと法は、緩やかなものになる。世の中を混乱させようと言う勢力は、公序良俗を破綻させ、法の強化を望んでいるのである。法の強化によって健全な社会の自律性を奪おうとしている。

 文化は、人の心を清浄にし、情緒・情感を育てる。人間の行動の根源は、本来感性なのである。間違った科学万能主義は、この人間の感性をずたずたにしてしまう。科学ですら根本は、感性であり、直観なのである。この感性や直観を育てるのが文化である。だからこそ、文化の力が弱まれば、社会は、野蛮になるのである。
 野蛮か、文明的であるかの差は、文化の差である。その意味で、文化を否定したところで成り立つ科学社会は、相当野蛮な社会である。

 教育の働きは、社会の働きと相互作用にある。公序良俗を保つ力が教育にはある。この様な力は、社会環境によって保障されている。どちらの力が弱まっても、公序良俗を保つ力は弱まる。公序良俗というのは、社会秩序を守る力であり、文化の核、要となる力である。

 社会的空間は、生活に一定のリズムを与える。生活にリズムを与えているのが行事やしきたり、祭りである。この様な生活のリズムは、平凡な一年に変化をもたらし、時の移ろいを自覚させ、穏やかで緩やかな成長を促す。過去の記憶は、未来への確かな予測を生み出し、人の気持ちを安心へと誘う。行事、しきたり、祭りは文化である。
 正月やお盆などを通じて、自分が生きている空間や社会の在り方を間接的に、経験的に学んでいく。そうした、社会勉強を下にして、自分の生きていく道を見つけていくのである。社会との関わり合いを忘れた教育は、現実から遊離していく。そして、それは、本来文化の核となるべき教育が、文化を破壊し、滅亡させる要素として働いていくのである。教育の怖さはそこにある。

 最終的に、社会は、家庭と向き合わなければならない。家庭環境は、社会制度や法、環境に直接的に影響を受けている。社会の歪みや矛盾は、最も弱い立場にある家庭にしわ寄せがくる。だからこそ、家庭は、社会的弱者であってはならないのである。家庭の考えが直接社会に反映されるような構造が民主主義社会には、不可欠なのである。

 他者に認められない、理解されていないと言うのは、自己否定につながる。これは、自己と社会が鏡像関係にあることに由来する。この様にして、自己と社会は、直接的に向かい合っている。お互いに及ぼす影響は、間接的なものであるが、認識という点に関しては、直接対峙しているのである。社会制度の矛盾や歪みは、自己に直接反映されてしまうことを忘れてはならない。

 社会は、人の人生の外枠、背景である。それは、直接的に自分の人生に関わってくることは稀であるが、確実に、その社会に住む人、一人一人の人生を支え、規制しているのである。




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