学     校


 学校は、社会へ出るための準備をする場である。
 つまり、社会人としての教養や道徳を身につける場である。

 現在の学校空間は、生活の場とも、仕事の場とも切り離された極めて特殊・特異な空間である。社会空間は、例えば、生活空間と仕事の空間が表裏の関係に(職住空間)あるように、お互いが深く関わり合って形成するが、学校空間は、特に、学校制度が確立されて以降、生活の場や仕事の場と切り離された、孤立した・隔絶した空間になっている。

 学校空間は、集団生活の場である。集団教育の場である。
 集合教育の場であり、人間関係を学ぶ場であり、サブカルチャーの場でもある。

 本来の学校空間は、社会的空間であり、社会的規範、価値観を育成する場である。つまり、人間関係の在り方を学ぶ空間である。そして、職場や社会への前段の場である。
 現行の学校教育は、集合教育という面ばかりが強調されている傾向がある。その為に、学校教育に偏りが生じ、制度全体が歪められているのである。実際には、人間関係を学ぶべき場であり、サブカルチャーの果たしている役割、影響が、看過できないほど大きくなってきているのである。

 学校空間の構成は、中心に集合教育である正規の授業があり、その下敷きとして、集団生活、人間関係があり、正規の授業を取り囲むようにして部活や塾のようなサブカルチャー群があるという様になっている。

 学校は、閉鎖的な場である。学習の場である。家庭や職場、社会が、学校との連続性を持たせようとすることによってこの閉鎖性を補うことは可能である。問題は、そのやり方、在り方である。

 学校の教育主体は、教育者である。そして、部活の指導者や先輩が直接的な力で、家庭や社会が間接的な力で、学校教育を補佐、補助をしている。

 これだけは、少なくとも言える。学校は、教師の実験場ではない。

 学校空間は、成長段階に応じて何層にも重なっている。また、それぞれの段階もいくつかの空間に分裂している。つまり、学校空間というのは、重層的、複合的空間であり、空間そのものが構造をもっている。
 また、隣接する空間として、また、重複する空間として職場や家庭、地域社会がある。
 学校空間を構成する空間は、自己の内的空間である。これらの空間を貫いて、媒介し、結びつけているのが、学習主体である。

 初等教育は、共通項、共通の場を通じて為されるべきであるが、中等、高等と進学するにつれ、徐々に専門化していくべきである。そして、義務教育が終了した時点では、自律的に自分の進路を決定できる様な環境を整えるべきなのである。そのうえで、少なくとも成人の年令に達した時点で、自分で自分の職業を選択できるように自立させることが最終的目標である。
 義務教育の終了年令と成人年齢に差があるのは、義務教育終了時点である程度自分の進路を見極めさせ、社会に出る準備を開始させた上で、成人年令に達した時、社会に受け容れるという意味がある。自律的な意志を発揮させる、ないし、社会的責任を持たせるのは、成人年令の時点ではなく、義務教育終了時点である。
 その為には、入り口は、一つでも出口は多様にしておく必要がある。狭き門より入れである。今のように、出口を絞っていくのは、統一していくのは、教育上好もしくない。何でもかんでも、偏差値や学力で測るのは辞めるべきである。一番重要な基準は、自律的意志であり、いくら勉強ができても、他人に決めてもらえなければ何もできないのでは意味がない。
 年令による管理も辞めるべきである。現に、自動車学校のように実質を重んじる学校では、年令による管理をしていない。その人間の個性と成長段階に応じたカリキュラムを組んでいる。制度は多様に、運用はシンプルにである。
 一人一人の個性、成長に合わせて選択的な制度にすべきなのである。その為には、個別化された制度が必要なのである。個別化というのは、良い意味での区別化である。つまり、制度上に区別を設け、それを教育を受ける側に選択させるのである。

 社会には、いろいろな形態の学校が混在することが好ましい。飛び級や編入のような制度は、必要であるが、それよりも、制度そのもの、学校そのものを多様化すべきなのである。
 六・三・三制のような形で教育制度が硬直的単一的なのが問題なのである。教育を受ける人間にも選択肢がなくなるし、必然的に抑圧的な体制になる。また、多様な社会からの要求にも応えられなくなり、学校空間が孤立的、閉鎖的なものになる。産業や地域からの要請に応え教育は、学校の在り方、制度も合わせ多様な体制が良いのである。

 例えて言えば、職人学校のようなものや海外勤務者のための全寮制の学校。ドイツのマイスター制の様な制度。徒弟制度や丁稚制度のいいところを取り入れればいい。産学協同研究を増やし、研究者にもチャンスを与えるべきであり、大学が、起業家を育てたり、支援するのは、当然である。
 また、投資やビジネスも実地的に学習すべきであり、学生が金を出し合って投資クラブのような物を作るようなことも事業で支援すべきである。

 徒弟制度やマイスター制度は、職場が学校の機能の一部を担っている。これは、家庭が学校の機能の一部を担っているのに相当する。この様に、職場や家庭が学校と一体になった時、教育の実際的効果が保障されるのである。

 多くの企業が海外進出をしている。それに伴って国内に残された子弟の教育問題が頭を悩ませることになる。それでなくとも、企業規模が、全国的なものになると転校や引っ越しで子供達の生活空間が激変する。日本経済は、彼等の力に支えられていると言っても過言ではないのに、その後背、後方に対する支援が心許ない。これでは、安心して日本の発展に寄与することができなくなる。ひいては、日本や企業に対する愛着心も薄れる。彼等のために、全寮制の学校などを用意するのも社会の責務の一つである。
 このように、学校空間は、孤立的、閉鎖的、単一的に存在する空間ではなく。職場や家庭、地域社会と相互作用、相互関連によって、本来機能すべき場である。本来の機能を取り戻すためには、学校空間の閉鎖性を解き、隣接する、重複する空間と関連づける事によって、それらの空間との連続性を持たせることである。

 学習は、継続的に為される性質のものである。なぜならば、学習主体は、学習することによって成長が保障されているからである。学習を継続的にする為には、学校を生涯教育の場に変貌させていくべきである。つまり、職場と学校との間に連続性を持たせる必要があるのである。教育制度を職場の中にも浸透させ。より高度な技術を実践的に指導継承できるような機構を構築する必要がある。つまり、学校をより開かれたものにし、社会全体を教育機関化することである。

 良い例は、医師の国家試験制度である。医療技術は、年々向上しており、それに応じて医師の技能の向上も求められている。医師も一度国家試験を合格すれば、一生資格が保障されるという時代ではなくなってきているのである。研修制度や再試験制度などを導入すると同時に、医師の資格も多様化させていく必要があるのである。それにより、大学に限定されていた教育期間を、一生を通じて行う、つまり、職場にも延長していく必要があるのである。

 意欲のある子は、学校の授業よりも部活の方に熱心になる。しかも、部活の方が、プロ、つまり、職業に直結している。ただ、部活からプロになれる人間がかなり限定的なことが問題なのである。学校空間のサブカルチャー化である。
 部活は、国体や甲子園、ロボコンのような全国的な目標が与えられている。そこでは、国民的な栄誉、栄光が待っている。しかも、そこでいい成績をあげれば、プロになる道も拓ける。そうなると、子供達は、一心不乱に練習に打ち込むことになる。
 このような大会の果たす役割は見逃せない。明確な動機付けである。確かに、受験戦争にもこの様な作用が働いている。しかし、それがあくまでも私的領域にとどまっている上、自分の進路に直結していないことが問題なのである。

 学校空間は、家庭や職場という隣接、ないしは、重複している空間との関わりを重視し、その連続性を測りながら、されに、人間関係やサブカルチャーをも含んだ複合的空間として認識すべきなのである。
 その上で、より多様なニーズ、要求に応えられるような仕組み作りが求められているのである。




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